『えいがのおそ松さん』映画の感想:ギャグとストーリーの間で揺れる作品
物語の概要
高校時代の同窓会。いつものように見栄を張ってサラリーマンをしていると嘘をつくが、バレて気まずい雰囲気に。二次会には参加せず、家で酒を飲んで愚痴をこぼしているうちに寝てしまう。
目が覚めると、高校時代の出来事——ハタ坊が象にはねられた記憶や、世界に微妙なモザイクがかかった奇妙な光景が広がっていた。この世界は、六つ子の一人の高校時代の後悔から生まれたもので、記憶が曖昧な部分は適当に補完されているらしい。高校時代にはしなかった行動を取ると、世界がさらに歪んでしまう。
そこにダヨーンが現れ、顔がなくなってしまったと告げる。六つ子は必死に思い出そうとするが、記憶や想像によってダヨーンの顔はカッコよくなったり下品になったりと変化するばかり。この世界で元の世界に戻る方法を探すため、六つ子は高校時代の自分たちに会いに行く。
すると、現在のニートで仲良しの六つ子とは対照的に、高校時代の彼らは会話もせず、それぞれ異なるキャラクターを演じている。まるで別人のような18歳の自分たちに、六つ子たちは戸惑いながらも過去の記憶を少しずつ取り戻していく。
感想:ギャグとストーリーのバランスに苦戦
2019年に公開された『おそ松さん』の映画。正直に言えば、期待していたほど面白くなかったというのが率直な感想だ。つまらないとまでは言わないが、アニメ版『おそ松さん』のナンセンスなギャグの勢いに慣れていると、ストーリーを無理やり組み込んだせいでギャグが失速しているように感じてしまう。「ストーリーって本当に必要だった?」と思わずにはいられない瞬間もあった。
『おそ松さん』は、ナンセンスなギャグだけで突き進むことも可能な作品だ。物語を入れて“ちょっと良い話”にまとめる展開は、果たして必要だったのだろうか。映画として、単なるその場限りの笑いではなく、記憶に残る作品を目指した制作陣の意図は理解できる。しかし、アニメ版の魅力は、そうした刹那的な笑いの積み重ねにあるのだから、映画でもその路線を貫いてほしかったと感じる。こうした感想は、ひょっとすると私がこの映画のターゲット層から外れているからかもしれない。
※以下、ネタバレを含む感想
この映画は誰のためのものだったのか
※ここから先は映画のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
ギャグだけで押し切らなかったことへの不満はあるが、この映画が誰に向けた作品だったのかを考えると、その意図が見えてくる。
まず、この映画はギャグを消費して終わるような男性視聴者を主なターゲットにしていないと感じた。物語が進むにつれ、六つ子の後悔の原因が明らかになる。それは、高校時代に「高橋さん」という人物から受け取った手紙を、兄弟喧嘩の騒動の中で紛失してしまったことだった。過去の自分たちの喧嘩を仲裁しようと干渉した結果、世界がさらに混乱してしまう。
高橋さんという人物は、名前は同窓会で出てくるものの、ラスト近くまで姿を見せない。六つ子の誰もが彼女の名前も顔も思い出せず、手紙の理由すらわからない。ラブレターだったのではないかと妄想しながら、崩れゆく世界の中で高橋さんに会いに行く展開になる。
高橋さんにたどり着き、手紙の内容を聞くと、彼女はマイペースにこう答える。「高校卒業後、遠くに行くから、六つ子と記念写真を撮りたかった」と。それだけで後悔が解消され、元の世界に戻れるという結末だ。
高橋さんとは誰か?
突如現れ、ラストまで姿を見せなかった高橋さんとは一体誰なのか。個人的には、彼女は『おそ松さん』のアニメを追いかけて楽しんでくれた女性視聴者の“幻影”なのではないかと考えている。女性ファンが自分自身を投影できる存在として、高橋さんが登場したのだと思う。
そう考えると、映画の演出にも納得がいく部分が多い。下ネタギャグを抑え、18歳の六つ子と現在のニートな彼らを比較することでキャラクターの個性に落差をつけ、魅力を引き出そうとしている。また、特定のキャラクターにスポットライトを当てるのではなく、六つ子全体を描くことで、ファンが愛着を持てるような構成になっている。これらは、女性ファンを意識した演出だと感じる。
男性ファンにとっても悪くないが…
もちろん、男性ファンにもそれなりの面白さは担保されている。ただ、ギャグは時代性に左右されるため、公開から5~6年経った今見ると、笑いのインパクトが半減してしまうのは仕方のないことかもしれない。
情報
【監督】藤田陽一
【脚本】松原秀
【原作】赤塚不二夫
【公開】2019年3月15日
【時間】108分
【国】日本
【配給】松竹