NHKがコロナの件で気を使った2019年以前の映像ですとあるのは少し、悲しくなるが弘前の桜がどうして生まれたのかを知ることが出来たのは嬉しい。弘前さくらまつりが今も行われるようになった弘前城の桜の始まりが始まったのかそんなことを思いつつ人の手が入らないと40年から60年で枯れてしまうことが多いい染井吉野が138年も残っているのは弘前が植えられた桜を大切にしているか伝わってくる。


青森県弘前市にある弘前城、東北で唯一の現存天守、400年前の姿をとどめているお城である。1611年に一度築城されその後炎上して1810年に再建された。

天守下の石垣を修理するために曳屋と呼ばれる建物を壊さずに動かす技法を使って動かすことで様々なことがわかった。城郭の作りの堀、門、橋といった守りが近代のお城として作られていることが見えてくる。

守りを考えられた鉄壁の防御を意識した城担ったのはアイヌ民族が暮らしている地域があることから意識して守りを固く作っていると思われる。


1627年に炎上してから城の再建はもともと再建させてほしいと江戸幕府に嘆願していたが、1つ許すと他のところにも許さないといけないために許可されたかったがそれから180年以上の時が経って1808年に幕府はロシアの船が北海道周辺から日本海側に現れるようになると外敵から守るために城を再建する許可をだした。

弘前藩も城を再建したいと様々な願書を出していた。その中には海岸警備に有利ということなどをの理由を挙げていた。実際は30km以上海岸まであるために確認することが出来ない。そして蝦夷が直轄としたために弘前藩からは4000人以上の人が蝦夷に向かうが8割ちかくがなくなったことから皆の心を鼓舞する建物としての弘前城を作りたいと考えていた。

200年以上建てられていた弘前城は近年、修復のために曳屋と呼ばれる技術で動かし、その地盤を調査すると緩い石垣の上に立っており、イカ型の石で地盤を支えていたことが今回の曳屋でわかった。

明治に入ると城はほとんど修繕もせずにそのまま放置されていた。軍が駐屯に使用していたが、調度品などの様々なものがうしなわれた。

この頃には弘前の名物の桜はまだ生えておらず、1882年の元弘前藩士の菊池楯衛(きくちたてえ)が私財を使って1000本の桜を植えるが同じ元弘前藩士によって殆どの桜を駄目にされてしまう。

しかし、菊池の行動に心打たれて同じく桜を植えた内山覚弥(かくや)が、1894年に起きたに日清戦争でなくなった兵士のためという名目のもと慰霊として桜を植える。それから更に植樹を行い、桜の美しい名城となった。

江戸時代の中期までは花見といえば梅を眺めるものであり、桜で花見をするのは江戸の庶民文化でした。それから江戸末期にはソメイヨシノの品種が生まれ、全国に植えられるようになります。

桜は武士にとって桜のように散ることという考えとともに、桜のように一族が滅びるのでは縁起が悪いという考えがあることから武士の好む木ではありませんでした。

それが明治の始まりにもと武士の身分のだった人が自分たちが仕えていた城の周りに桜を植えるということが、武士の終わりをしっかりと意識したこととともに庶民にも弘前城を大切にしてほしいという気持ちがあったのではないかななどと見ながら思う。