東北の隔絶された村で起きた怪死事件を調べるため、魚崎たちは秘境へ向かう。そこで彼らが出会ったのは、村に伝わる怪物伝説そのものともいえる大怪獣バランだった。
圧倒的な力で村を壊滅させたバランは、やがて東京湾から羽田へと進出し、自衛隊との大規模な攻防が繰り広げられる。通常兵器が通じない中、人々はバランの生態を利用した危険な作戦に望みを託す。
『大怪獣バラン』は、この展開だけを見れば、秘境の怪異譚と都市破壊怪獣映画が一体になった魅力的な作品である。映画を見ても前半の土着信仰めいた不気味さと、後半の総力戦としての派手さはしっかりとした見どころになっている。
特に、バランがその姿を現してから暴れ回る場面の迫力は強い。白黒映画ならではの陰影も相まって、怪獣の巨大さと不気味さがよく伝わってくる。戦車や軍艦、自衛隊の兵器が並ぶ画面には重厚感があり、音楽も悲壮感をしっかり支えていて、特撮映画としての見せ場はかなり魅力的だと思う。
製作スタッフ
監督:本多猪四郎
特技監督:円谷英二
制作:田中友幸
原作:黒沼 健
脚本:関沢 新一
役者
- 『野村浩三』魚崎健二(生物研究者)
- 『園田あゆみ』新庄由利子(東日新報婦人記者)
- 『千田是也』杉本博士(生物学者)
- 『平田昭彦』藤村博士(火薬学者)
- 『村上冬樹』馬島博士(生物研究者)
- 『土屋嘉男』勝本三佐
- 『山田巳之助』長官(防衛庁長官)
- 『伊藤久哉』新庄一郎(生物研究者)
昔の映画が始まって最初に出てくるのが監督や技術者の名前が先に表示され、そして俳優という誰が作ったかで人を集めていた時代に合わせて、スタッフから役者の順番にさせてもらった。
特撮の迫力は今見ても強い
本作の大きな魅力は、やはり特撮そのものの力にある。湖から現れ、村を破壊し、自衛隊の攻撃をものともしないバランの姿には、怪獣映画ならではの高揚感がある。
とくに白黒映像の効果は大きい。色がないことで情報が整理され、バランの皮膚の質感や、煙、炎、海の暗さが際立つ。そのため、海から迫ってくる怪獣の恐怖がより強く感じられた。
戦車や軍艦が登場する場面の重厚感も見逃せない。音楽も画面の緊張感を支えており、単なる怪獣退治ではなく、「なんとかして止めなければならない」という悲壮感が画面全体に漂っていた。
気になるのは設定と物語の大ざっぱさ
ただ、その一方で、物語や設定に目を向けると引っかかる部分も多い。たとえば学者たちは、ろくに調査も進まないうちからバランを「中生代の生き残り」と決めつけてしまう。
現代の感覚で見るとかなり強引で、むしろその段階では村に残る迷信や伝承のほうが説得力を持っているように感じられる。
ここには、当時のSF映画にありがちな「科学という言葉の勢いで物語を前へ進める」作りが見える。未知の存在に対する厳密な説明よりも、まずは見せ場へ進むことが優先されているのだろう。ただ、そのぶんバランという怪獣そのものの設定が浅く見えてしまうのも確かだった。
怪獣映画でありながら、事件が現場で積み重なっていくというより、会議室で方針が決まり、その結果が現場へ持ち込まれるような印象が強い。これも本作独特の空気であり、面白さと物足りなさの両方につながっているように印象がある。
民間人と軍の距離感には時代性がある
この大怪獣バランを見ていると、学者や新聞記者といった民間人が、軍に対してかなり前に出てくる。終盤では魚崎がトラックで爆薬を運び、怪獣に肉薄するような展開まで用意されているのだが、今の感覚だと「そこは本来、自衛隊の役目ではないか」と思ってしまう。
ただ、これは単に不自然というだけではなく、当時の映画らしいヒーロー性の表れでもあるのだろう。巨大な組織がいても、最後に突破口を開くのは個人の勇気である、という作劇である。
さらに、戦後間もない時代の空気を考えると、「軍に任せきりにせず、市民や知識人が解決の糸口を見つける」という描き方には、それなりの意味があったのかもしれない。今見ると違和感はあるが、その違和感もまた時代性の一部として受け止めるべきなのかもしれない。
バランにはゴジラのような象徴性がない
本作で最も大きく感じたのは、バランにはゴジラのような強い象徴性がないという点である。

むささび怪獣バランという設定で、水陸両用でありながら空をも飛ぶというのは、地上のすべてを支配する可能性があった存在として見せたかったのかもしれない。
しかし、バランの存在感を強める背景がなかった。
ゴジラであれば、核や戦争、日本の戦後体験といった重いメタファーを背負っている。だからこそ東京へ現れ、都心へ迫ること自体に大きな意味が生まれる。
しかしバランは、土着信仰の怪物として登場するわりに、なぜ復活したのか、なぜ暴れるのか、なぜ東京を目指すのかが最後まではっきりしない。そのため、圧倒的な強さを見せる怪獣ではあっても、「よく暴れる巨大生物」以上の存在としての重みがやや薄く感じられてしまう。
前半では、隔絶された村や怪物伝説の不気味さが強く、土着怪獣としてかなり面白い。だが後半になると、東京湾や羽田での都市破壊スペクタクルへと重心が移り、なぜ東京を目指すのかとか、なぜただ暴れるだけなのかといった、訴えたいものがないにしてもバランの存在理由が薄まってしまう。
本来なら、バランの存在に人間ドラマによって深堀されて、バランの背景に厚みを作られる可能性はあったのだろうが、それよりも登場人物のヒーロー性にスポットが当たっていたのかもしれない。
それでも見どころは確かに残る
それでも、この映画には強く印象に残る魅力がある。とくに人々が逃げ惑う場面には、今の映画では出しにくい切実さがある。戦後の記憶がまだ濃かった時代に作られた作品だからこそ、避難する群衆の映像には独特のリアリティが宿っていた。
通常兵器が通じない中で、最後に照明弾へ反応する習性を逆手に取り、体内から爆破するという決着には納得感がある。単に火力で押し切るのではなく、生物としての特性を利用して倒すところに、怪獣映画としての面白さがしっかり出ていた。
途中の設定には粗さがあっても、最後の倒し方にはきちんとした気持ちよさがある。この点は本作の大きな強みだと思う。
まとめ
『大怪獣バラン』は、特撮映画としての見せ場は非常に強い作品である。白黒映像の恐怖感、兵器描写の重厚感、ミニチュア破壊の楽しさは今見ても十分に魅力的だ。
その一方で、怪獣バランそのものにはゴジラのような象徴性が薄く、行動原理も曖昧である。前半の土着信仰の怖さと、後半の都市破壊スペクタクルが、思想としてはつながりきっていない。そこが、この作品の惜しさでもあり、独特さでもある。
結局のところ、『大怪獣バラン』は、設定の整合性を厳密に追うよりも、当時のスタッフが子どもたちを驚かせようとして積み上げた「大きな嘘」を受け入れる気持ちで見ると、かなり楽しめる映画だと思う。
ムササビのように飛び、無茶苦茶に暴れ、白黒画面の中で異様な存在感を放つバランだが、その後の特撮映画の影に隠れてしまった感はいなめない。
むささび怪獣バランという設定で、水陸両用でありながら空をも飛ぶというのは、地上のすべてを支配する可能性があった存在として見せたかったのかもしれない。