京都の学校の多くは、天皇が東京に遷るのに合わせて、天皇について武家や公家たちは天皇を追いかけて東京に移ってしまう。そのためにできた空きスペースに学校を建設した。欧学舎、新英学校女紅場、医学校、同志社英学校などの様々な学校が生まれることで、様々な京都の祭りなどに学生が参加するようになった。

京都が13万人を超えるの学生の街、大正2年、日本最古の京都大学吉田寮

木造のいつ壊れてもおかしくないように見え、廃墟のように色々なものが散らばっている吉田寮の姿に驚きを隠せない。自分も大学生の時代は寮で生活をしていたのでそれはとても楽しい経験であった事は覚えている。

私が住んでいた寮は工場の労働者のための寮だったためか、コンクリートのしっかりとした建物と管理人がいることから荷物は部屋の中は置いておいても廊下に荷物を置くことはなかったが、番組で出てくる吉田寮では学生のための寮として大正2年に建築され、建物は木造、廊下には荷物、新入生が5月まで寮に入る学生たちがまとめている部屋の床は布団だけがあって床が見えない。

まさに漫画にでてくる想像の中にだけ存在する学生寮のような雰囲気、壁にはポスター、注意書き、落書き、なんとも楽しそうな寮生活は想像上の大学生活をそのまま思わせる。

NHKの番組『日本の素顔「学生寮」』で取り上げられているが昭和30年の60年前の映像のなかで、平成29年以上に騒ぎ楽しそうな生活をしている昭和30年の学生たち、今から60年も前の映像でアナウンサーがコンパという言葉を使っていることに驚きである。

昔から変わらない青春を感じさせる「青春の聖地」であることだけは誰が見てもわかるだろう。

現代の吉田寮で平和な時代の現代の学生たちとは違う人もいる。

大学に入学してすぐに青春を過ごすことが出来きず学徒動員として軍隊に入ることになった岩井さん。

昭和17年の戦争が激化により学徒動員によって学生生活を行うことが出来なかった。震洋というボートの特攻兵器の志願した岩井さんは特攻する予定だったが、岩井さんたちを輸送している船が沈められなんとか生き残った。彼は厳しい戦争体験とのどかな鴨川というものをある意味を対比として風景等して思い浮かべた。 

戦後、京都大学で日本近代史の研究者となった岩井さんが60歳を超えてから語るようになったのは時がたち、特攻を美化するようになった日本に違和感を感じたから。 ほんの17年前、大正という民主化が進んでいた日本がたった17年後には国が強制的に学生に死んでこいという国へと変化したことを忘れては行けない。 戦争による学生生活の中断から歴史は繰り返される。1960年頃から始まる学生運動から全共闘・大学紛争と学生たちが参加した。参加した学生たちの中で要領よく、大学卒業とともに大学紛争から足を洗って社会に順応する人たちを眺めつつ、そのままその空気をまとったままに社会に出てしまった学生たち。 戦争に行った学生、学生運動に生きた学生、そして現代の学生、皆それぞれの青春を過ごした。誰もが大人になってふとしたきっかけで思いおこすことができる空気の匂いを皆が纏っていた。